連載「信頼の設計図 ― 不動産が問い直す、富の本質」について
本連載は、資産を「増やす」時代から、資産で「何を遺すか」が問われる時代へ。不動産という最も古い資産クラスを通じて、信頼・承継・社会・テクノロジー・人の価値を横断的に考察する全6回のシリーズです。
「富は3代で尽きる」とよく言われます。しかし私は長年この言葉に違和感を持ち続けてきました。資産が3代で失われる本当の理由は、分配に失敗したからではなく、「なぜこの資産を持つのか」という意志が、世代を越えて伝わらなかったからではないでしょうか。2026年度の税制改正が不動産と相続の関係を根本から問い直す転換点となった今、承継という問いは「技術」ではなく「哲学」の領域に踏み込み始めています。
資産家は3代目で崩れる ― それは宿命ではなく、設計の不在とは何か?
前回のコラム(富裕層がアドバイザーを信用しない理由|信頼の設計図)では、信頼は「選ぶ側の目利き力」だけでなく、「構造によって設計されるもの」だと論じました。承継もまた、同じ構造の問題を抱えています。意志が構造として設計されていなければ、どれほど大きな資産も、次の世代には「重荷」として受け取られてしまうのです。
「富は3代で崩れる」という経験則は、世界中の資産家家族に繰り返し語られてきました。初代が創り、二代目が守り、三代目が使い果たすというパターンです。しかしこの崩壊は、資産の量の問題ではありません。むしろ、資産を持つことの意味が代を重ねるごとに希薄化していく「意志の喪失」こそが根本原因です。
不動産は、この問題を特に鮮明に映し出す資産クラスです。現金や株式と異なり、不動産は「分けにくい」という固有の性質を持っています。一棟のビル、一区画の土地を「3分の1ずつ」に分けることはできません。分けることができないからこそ、誰に、何を、なぜ渡すのかという問いが避けられない形で浮かび上がります。だからこそ、この問いと向き合うことが、承継を「設計」するということの本質だと私は考えています。
世界の潮流:ファミリーオフィスの「初めての世代交代」とは何か?
世界の富裕層ファミリーを取り巻くファミリーオフィスの多くは、実はまだ一度も世代交代を経験していません。設立から第一世代の創業者が中心を担い続けてきた結果、承継のプロセスを「実践」で学んだ組織が極めて少ない状況にあります。調査によれば、世界のファミリーオフィスの大多数が設立後10〜20年を経過しながらも、リーダーシップの世代間移行を一度も経験していないとされています。
これが意味することは深刻です。今後10年で、世界中のファミリーオフィスが一斉に「初めての承継」を迎えるタイミングが到来します。50以上の口座、複雑な投資事業体の構造、複数の不動産法人 ― そして家族間に積み重なった感情。これらが承継の局面で初めて可視化されるケースは決して珍しくありません。「設計していなかったことのツケ」が、資産の溶解として現れるのです。
日本においても、事情は同じです。調査によれば、富裕層・経営者の5割超が相続対策を具体化できていないとされています。問題は対策の内容ではなく、「何のために承継するのか」という問いに向き合えていないことにあります。富裕層の究極の資産防衛術「ファミリーオフィス」とは?でも解説しているように、ファミリーオフィスは制度として整えても、その中に流れる「意志」を設計しなければ機能しません。
なぜ税制の転換点が「節税目的の不動産保有」を問い直すのか?
2026年度の税制改正は、不動産と相続の関係を根本から問い直す転換点となりました。取得価額評価の方針 ― すなわち、購入から一定期間内の投資用不動産の相続税評価を実勢価格に近い形で算定する方向性 ― は、「不動産を持てば相続税評価額が下がる」という長年の前提を崩しました。節税を目的とした保有戦略そのものの見直しを迫っています。
いわゆる「タワマン節税」と呼ばれた手法は、この税制改正によって実質的に終焉を迎えました。高層マンションを購入することで相続税評価額を大幅に圧縮し、課税額を抑えるという戦略は、もはや以前のような効果を期待できません。この変化は単なる「節税手法の終わり」ではなく、不動産を保有する目的そのものを問い直す機会です。
「節税ツールとしての不動産」から「意志の容れ物としての不動産」へ ― これは私が以前から主張してきたパラダイムシフトですが、今回の税制改正がそれを制度として追認した形になりました。不動産を節税目的で取得してきた層は、今まさに出口戦略と保有目的の再定義を迫られています。この問いと正面から向き合った先に初めて、真の承継設計が始まります。
不動産承継の「三重苦」:なぜ分けにくく・時価が動き・感情が絡むのか?
不動産が承継において特に難しい理由は、固有の「三重苦」を持つためです。この三つを理解することなしに、承継の設計は始まりません。
1. 分割できない「物理的難しさ」
現金や上場株式と異なり、一棟ビルや土地は「3分の1ずつ」に分割することができません。やむなく共有名義にすると、意思決定は複数の相続人の合意を必要とし、売却・建替え・担保提供のたびに関係者全員の同意が必要になります。相続不動産を共有名義にしないことの重要性は広く知られていますが、その前提として「そもそもどう渡すか」を設計しておくことが不可欠です。
共有名義による意思決定の複雑化は、親族間の感情的対立を引き起こすことも少なくありません。不動産を巡る家族の紛争は、多くの場合、法律の問題ではなく、「なぜこう分配されたのか」という意志が伝わっていないことから始まります。
2. 時価が動く「価値の不確実性」
不動産の市場価値は常に変動します。相続が発生した時点の評価額と、実際に売却した場合の価格には大きな乖離が生じることがあります。特に2025〜2026年の東京不動産市場は高値圏にあり、将来的な価格調整のリスクを内包したまま承継するケースも増えています。
価値が不確実だからこそ、「いくらの価値の物件を渡したか」ではなく、「どんな思いで渡したか」という意志の言語化が重要になります。時価は変動しても、意志は変わらないからです。
3. 感情が絡む「心理的難しさ」
生まれ育った実家、親が苦労して取得した土地、家族の歴史が刻まれたビル ― これらには経済的価値を超えた「感情価値」があります。この感情価値を無視した合理的な分配が、かえって家族の感情的な断絶を生むことがあります。
「誰にどの物件を渡すか」は、経済的判断であると同時に、親の意志の表明でもあります。だからこそ、遺言書は法的な効力だけでなく、家族へのメッセージとして機能します。感情価値を含めた資産の「意味」を、承継の設計に組み込む必要があります。
承継を「設計」する5つの要件とは何か?
承継を偶然ではなく設計によって実現するためには、5つの要件があります。これらは「やるべきこと」のリストではなく、「なぜそれが必要か」という哲学と接続させることで初めて機能します。
① ファミリー憲章:資産を「なぜ持つか」を言語化する
ファミリー憲章とは、家族の価値観・資産保有の哲学・承継の原則を文書化したものです。「何を渡すか(What)」ではなく「なぜ渡すか(Why)」を家族の共通言語にすることが目的です。憲章があることで、次世代が資産を「受け取る意志」を持てるようになります。
重要なのは、ファミリー憲章は「ルールブック」ではないということです。それは家族の対話の結晶であり、創業者の思想が言語化されたものです。次の世代は、その言語から自分たちの解釈を生み出していきます。
② 家族会議:意志の継承は「対話」によってしか生まれない
年に一度、資産の現状・保有方針・次世代の意向を話し合う場を設けることが、承継設計の核心です。相続が始まってから初めて集まる「遺産分割協議」は、対話ではなく交渉です。そこには信頼ではなく、利害しかありません。
不動産相続で揉めないための家族会議の進め方にもあるように、家族会議は「決める場」ではなく「対話を続ける場」として設計することが大切です。定期的な対話の積み重ねが、承継の瞬間に必要な相互理解を育みます。
③ 不動産の法人化:承継の受け皿を整える
個人名義の不動産を資産管理会社に移転することで、株式という形で分割・承継が可能になります。経営の継続性が保たれ、税務上のメリットもあります。しかし法人化はあくまで「手段」です。目的は、意志を次世代に渡すための受け皿を整えることにあります。法人化を「節税対策」として捉えると、税制変化のたびに戦略が揺らぎます。
④ 生前贈与・遺言の組み合わせ:意志を法的形式に変換する
暦年贈与・相続時精算課税制度の活用は、2026年度税制改正後も継続して有効です。重要なのは、これらの制度を「税の抑制策」ではなく「意志の漸進的な移転」として活用することです。遺言書は法的効力だけでなく、家族へのメッセージとして機能します。どんな思いでその財産を残したのか、何を願って渡すのか。その言葉が、承継を「負担」ではなく「意志の継承」に変えます。
⑤ 専門家チームの構築:縦割りを越えた連携を設計する
不動産承継には、相続税申告を担う税理士、法的紛争対策を担う弁護士、物件評価・処分戦略を担う不動産コンサルタントの連携が不可欠です。それぞれが縦割りで動くのではなく、「チームとして機能する」専門家体制を構築することが承継設計の要件の一つです。前回のコラムで論じたように、利益相反のない独立したアドバイザーを選ぶことが、長期的な信頼の基盤となります。
私の考え
私が不動産コンサルタントとして最も重要だと考えるのは、「承継の前に、対話を設計する」ことです。承継の相談を受けると、多くの方が最初に「どうすれば税を抑えられるか」を問います。しかし私がまず問い返すのは、「あなたはどんな家族の未来を描いていますか」という問いです。
不動産は、現金と異なり「物語」を持つ資産です。そこに人が住み、家族が生まれ、事業が育った場所としての記憶が刻まれています。意志なき承継は、資産を引き継いだ次世代に「負担」しか与えません。税を支払い、管理し、判断を迫られ続けながら、「なぜ自分がこれを持っているのか」という問いに答えられない状態は、豊かさとは言えないと思います。
「何を渡すか」を決める前に、「なぜ渡すか・誰に渡すか・どんな未来を願って渡すか」を言語化する作業が、本来の承継設計です。INA&Associatesでは、資産承継のご相談をお受けする際、税制や評価額の議論の前に、まずこの問いと向き合っていただくことを大切にしています。
「信頼の設計図」とは、次世代への責任を自覚した人が、未来に向けて描く地図です。その地図は完璧である必要はありません。しかし、描こうとする意志があるかどうかが、3代後の姿を決定的に変えます。私はそう信じています。
「何を、なぜ、誰に渡すのか」 ― この問いに、あなたは今、答えられますか。
あなたの資産は、「意志」とともに渡せる状態にあるか
承継の成否を決めるのは、資産の規模ではありません。承継の「設計」があるかどうかです。どれほど大きな資産も、意志なき承継は次の世代を縛るだけです。逆に言えば、小さな資産であっても、「なぜこれを渡すのか」という言語化された意志があれば、それは次の世代の羅針盤になりえます。
「初めての承継」は一度しかありません。ファミリーオフィスが世代交代を経験するのも、家族が資産を引き継ぐのも、すべて一度きりです。その一度をどう迎えるか ― その問いと今すぐ向き合うことが、設計の始まりです。
本稿のまとめとして、以下の5点を確認しておきたいと思います。
- 承継の失敗は「分配の失敗」ではなく、「意志の喪失」から始まる
- 不動産は分けにくい・時価が動く・感情が絡む「三重苦」を持つ固有の資産である
- 2026年度税制改正は「節税目的の不動産保有」を問い直す決定的な転換点となった
- ファミリー憲章・家族会議・法人化・専門家チームは「設計の道具」であり、目的ではない
- 問われているのは技術ではなく、「何を、なぜ、誰に渡すのか」という哲学である
次回は、不動産が社会課題を解決できるのか。900万戸の空き家とインパクト投資の可能性に迫ります。
連載「信頼の設計図 ― 不動産が問い直す、富の本質」
- 第1回:「成功」の定義を問い直す
- 第2回:富裕層がアドバイザーを信用しない理由
- 第3回:不動産承継が問い直す「意志」の設計(本稿)
よくある質問(FAQ)
Q1. ファミリーオフィスを設立していなくても、承継設計はできますか?
はい、できます。ファミリーオフィスは承継設計の手段の一つに過ぎません。重要なのは家族の意志を言語化し、資産の保有目的を明確にすることです。規模に関わらず、ファミリー憲章の策定や家族会議の習慣化から始めることができます。まずは「なぜこの資産を持つのか」という問いに家族で向き合うことが、すべての出発点です。
Q2. 不動産の法人化は、必ずした方がいいのでしょうか?
状況によります。法人化は分割のしやすさ・税務メリット・経営継続性の観点で有効な手段ですが、コスト・手続き・既存融資との関係など考慮すべき点も多くあります。「法人化ありき」ではなく、承継の目的・家族の意向・資産規模に応じた判断が必要です。専門家チームと連携した上で検討することをお勧めします。
Q3. 2026年度税制改正で、既に購入した投資用不動産はどうなりますか?
今回の改正は、取得価額による相続税評価の見直しを主眼としています。具体的な影響は保有物件の種類・取得時期・評価方法によって異なりますので、詳細は税理士等の専門家にご確認ください。重要なのは、税制の変化を前提として保有目的を改めて問い直し、承継設計に組み込むことです。
Q4. 「家族会議」は何から始めればいいですか?
まず、資産の全体像を家族が共有することから始めることをお勧めします。どんな不動産・金融資産があり、どんな方針で保有しているか、次世代はどのような意向を持っているかを確認します。最初の家族会議は「決定する場」ではなく「対話を始める場」として設定することが大切です。決定を急がず、まず互いの考えを知ることに集中してください。